JP / EN

仏教とお経

仏教とお経

仏教聖典や英訳大蔵経の背景にある仏教や
お経の歴史をご紹介いたします。

仏教聖典の歴史

仏教の開祖・ブッダとは?

 仏教の開祖はガウタマ・ブッダ(パーリ語ではゴータマ・ブッダ)です。日本では「お釈迦さま」という名称で親しまれています。ガウタマ・ブッダは、歴史上実在した人物と考えられています。正確な生没年代は分かっていませんが、2500年ほど前と推定されています。その生涯は伝承以外には知ることができませんが、最も有力な伝承では以下のように伝えられています。
 誕生したのはインド亜大陸の北、現ネパールのルンビニーで、シャーキャ族(釈迦族)の王子でした(降誕)。誕生した王子はシッダールタと名付けられました。釈迦族の期待を背負って成長した王子でしたが、生後間もなく母マーヤーと死別したという事情もあり、自分や世の生きものたちの生死に深く悩みながら青春時代を送りました。その結果、妻ヤショーダラーと子ラーフラを残して、29歳の時、城を出て、沙門(出家者)となりました(出城)。
 その頃インドでは、神々への讃歌からなる「ヴェーダ」を聖典とする呪術的な宗教(バラモン教)が支配的であり、婆羅門と呼ばれる司祭者が、神々を招いて祭主の願いをかなえる祭祀を行っていました。しかし、農村社会から都市が発展して、交易が盛んになり、多くの王国が出現するようになると、新しい宗教が数多く誕生しました。そして、その担い手は沙門が中心でした。
 さて、沙門となった青年シッダールタは二人の師につきましたが、彼らの教えでは生死の問題は解決されないと知ります。師のもとを去って、ウルヴィルヴァー(今のブッダガヤー)で5人の仲間とともに6年間、苦行に励みました。しかし、苦行によっても求めるものは得られませんでした。苦行を捨てて、牛飼いの娘スジャーターの供養した乳粥を食べて体力を回復すると、近くを流れるナイランジャナー河のほとりにある樹の下で静かに瞑想しました。
 瞑想するシッダールタは、瞑想を妨害する悪魔マーラに打ち勝つと(降魔)、生死の苦しみの原因は何かと探求し、この世のすべての出来事には原因があるが、その根本は無知であり、この無知を無くせば、ついには生死の苦しみから解放されるという「縁起」の真理を覚りました。別の伝承によると、「縁起」の真理を覚る前に、生死の苦しみを深く考察し、その生起や停止、さらにその停止に至る道をみつけて、生死から解放されたと自覚したことが覚りの内容とされています。いずれにしろ、このとき、シッダールタはブッダ(、目覚めた人)となったのです(成道)。
 ブッダは自らが覚った真理()を他者に伝えるべきかどうか躊躇しますが、バラモン教の創造神(梵天)に請われて、人々に法を説くことを決意します(梵天勧請)。かつて学んだ二人の師は亡くなっていたため、最初の説法の相手として選んだのは、苦行をともにした5人の仲間でした。彼らを訪ねてヴァーラナシーのムリガダーヴァ(鹿野苑)に赴いたブッダは、「人生は苦しみに満ちているが、それには渇望という原因があり、その原因を無くせば苦しみから解放され、そのための道がある」という「四聖諦」の教えを説きました(初転法輪)。その結果、五人の仲間は次々とブッダと同じ覚りを得たとされます。ここにブッダの教えに基づく修行者の共同体(僧伽、サンガ)が誕生したのでした。これは、仏教徒が帰依すべき「三宝(仏宝・法宝・僧宝)」が成立したことを意味します。
 それから45年間、マガダ国やコーサラ国といったガンジス川の中下流域地方で教えを説き続けたブッダは、自らの死期をさとり、故郷カピラヴァストゥへ向けて歩み始めました。しかし、旅の途中に体調を崩し、クシナガラにある二本のサーラ樹(沙羅双樹)の下で80歳の生涯を終えました(入滅)。その遺体は火葬され、遺骨は八分され(舎利八分)、それを収める仏塔(ストゥーパ)が建立されました。ブッダ入滅後のインドにおいて、仏塔は仏教徒の心の拠り所となりました。僧俗を問わず多くの人々が、そこにブッダが今なお何らかの形でおられることを信じて、参詣し供養したことは、その周りに近親者の遺骨や遺髪などを収めた小型の仏塔が奉納されていたことからもうかがえます。


仏典の
成立

 ブッダは生涯を説法、仏教伝道に捧げましたが、その教えの内容を文字に記して残すことはありませんでした。これは、口承伝承を重視するインド文化の伝統に則っていますし、ガンジス川の中下流域地方ではその当時、まだ文字は使われていませんでした。
 さて、ブッダが死去した直後に、一人の弟子が「これで私たちは自由になった」と言ったと伝えられています。「このままでは、ブッダの教えは正しく伝わらない」という恐れから、最年長の弟子マハーカーシャパ(摩訶迦葉)尊者の指揮のもとに、弟子たちがマガダ国の首都である王舎城郊外の七葉窟に集まり、それぞれがブッダから聞いた戒めや教えを確かめ合いました(第一結集)。ブッダが折々に定めた教団の規則()はウパーリ尊者が、説かれた教え()はブッダの側にいつも仕えていた従兄弟のアーナンダ尊者(阿難)がまとめました。結集を通して確かめ合った教えは、インド文化の伝統に従って、仏弟子たちが文字に記すことは長い間ありませんでした。


仏教教団の分裂

 結集を通してまとめられた教えや戒律について、いつしか教団内のグループごとに解釈の相違が生まれました。まず上座部と大衆部の二つに分裂したと伝えられています(根本分裂)。その後、遅くとも紀元前後頃までに、仏教教団は約20の大小さまざまなグループ(部派)に分裂していきました。多様な考えを持ったグループが並存可能であることこそ、後世に至るまで仏教という宗教の重要な特色となります。
 各部派では、ブッダの教えの内容を解釈し、整理する文献が作られ「アビダルマ」()と呼ばれました。かくして、経・律・論からなる三(トリピタカ)が、部派ごとに整備され、伝えられていくことになりました。しかし、こうした三蔵のほとんどは散逸し、現在完全に残っているのはパーリ語で伝えられた上座部大寺派のもの(パーリ語三蔵)だけです。それ以外の部派の三蔵は、漢訳やチベット語訳、あるいはサンスクリット語などで部分的に残っているだけです。
 インド亜大陸の南にあるスリランカ島では、アショーカ王の頃に上座部系統の教えが伝わり、後に大乗仏教も伝わりましたが、最終的には大寺派の教えがパーリ語三蔵とともに継承されました。大寺派の三蔵は口伝で伝承されましたが、飢饉のために口伝する者が死に絶えるかもしれないなどの社会不安や政治不安のため、紀元前一世紀頃に書写に踏み切ったと伝えられています。このパーリ語三蔵とともに、スリランカに伝承された大寺派系統の教えがミャンマーやタイをはじめとする東南アジア諸国における仏教の主軸となりました。


大乗仏教と
小乗仏教

ブッダ入滅より凡そ五百年後の紀元前後、それぞれの部派が「ブッダの説法の記録」とみなしてきた「経」とは異なる経典群が突如として出現します。『八千頌般若経』(小品般若経)などの般若経類や『無量寿経』などの浄土経類は、部派所伝の経典(初期仏典)に対して「大乗経典」と総称されます。それまでの仏教では、出家者に代表される「聖」と一般の人々の「俗」とを厳密に区別して、人々の救済よりも出家者の修行の完成が中心的に説かれていましたが、新出の経典群ではそのような教えを「劣った乗り物」という意味で「小乗」と非難し、人々の救済のために悟りを目指してひたすら努力する「菩薩」という理想の修行者像を提示しました。菩薩は、自らの修行の完成で満足せず、大慈悲心を起こして人々を救済する存在です。このような教えは、全ての人々を救う「偉大な乗り物」として、「大乗」と呼ばれたのです。


大乗経典の
誕生

 新しい経典が突如として出現した背景は、残念ながら良く分かっていません。その背景には仏塔の周りに集まった在俗の仏教徒たちが重要な役割を担っていたとする説、伝統教団を離れた僧たちが制作したという説、伝統的な仏教教団の中の特定の個人あるいはグループが制作したという説など、様々な説が唱えられていますが、決着していません。おそらく大乗経典が成立した背景には、例えば、ギリシャ系やイラン系など様々な民族が入り混じっていたガンダーラ地方(現パキスタン北西部およびアフガニスタン東部)で、度重なる戦乱による社会的・政治的不安から来る人々の切実な要請があり、新しい経典を創出することによって、仏教はそれに応えようとしたと考えられます。
 新たに誕生した大乗経典は、それまで口頭伝承されてきた経典とは異なり、文字で書き写され、写本で流通したという点にも大きな特徴があります。古い時代の写本は樺の木の皮に記されたものもありますが、後にはターラ樹の葉に記されたもの(貝多羅葉)が一般的になります。またガンダーラ文化圏であるギルギット(現パキスタン)からは、こうした写本を収めた経蔵も発掘され、誰によってどのような写本が集められ、後世に伝承されたのかが判明する貴重な事例を提供しています。


中観と唯識

 大乗仏教は、新しい経典を創出するだけでなく、様々な論書を生み出しました。経典はあくまで「ブッダの説法」という形式をとるのに対して、論書は作者(論師)の名前が特定されている点に大きな特徴があります。小乗仏教のアビダルマ論書でも作者の名前が記録されています。大乗仏教の論師として最初に名前が知られる人物が、般若経に説かれる空の思想に基づき、アビダルマ論師たちの仏教理解を批判したナーガールジュナ(龍樹、2世紀)です。彼の思想は「中観思想」と呼ばれ、大乗仏教全体に大きな影響を与えました。
 龍樹の中観思想に基づき形成された中観派は、アビダルマ哲学の実在論に対して「すべての存在は、固有の本質を持たず、空である」という一見虚無主義的な主張を掲げ、具体的な修行法についてはほとんど論じることがありませんでした。そこで登場したのが、アビダルマの瞑想法を継承して、瑜伽行の実践をおこなった瑜伽行派です。彼らは、「一切は空である」という中観派の主張を批判し、「空」による否定を重ねた後にも何か「肯定的なもの」が残り、それは私たちの「心」(識)であると主張しました。そのような主張は、彼らの瞑想体験に裏打ちされており、そこから「すべての存在は、心の顕れである」という「唯識思想」が形成されました。4−5世紀になると、アサンガ(無著)とヴァスバンドゥ(世親)兄弟は瑜伽行唯識思想を体系的に確立し、アビダルマ哲学の心の分析をさらに深化させ、五感官による認識と意識の奥底に「自我意識」(末那識)や「潜在意識」(阿頼耶識)があることを論証するに至ります。瑜伽行派の中から、後に独自の仏教論理学(因明)を生み出したディグナーガ(陳那、5―6世紀)やダルマキールティ(法称、6―7世紀)などが輩出することになります。
 勿論、インドにおいて、中観派や瑜伽行派を生み出した大乗仏教の出現によって、従来の仏教が完全に消滅したわけではありません。中国出身の義浄が記した記録によれば、7世紀のインドにおいて大乗仏教の中観派と瑜伽行派とともに、従来の仏教部派の説一切有部や正量部などが共存していたとされます。


仏典の翻訳

 紀元前二世紀頃、のちに「シルクロード」と呼ばれる、中央アジア(西域)を通ってインドと中国(漢)を結ぶ交易路が生まれました。インドに発祥した仏教は、まず中央アジアのガンダーラを経由して、タクラマカン砂漠周辺に点在するオアシス国家に伝わりました。そこから、紀元後1世紀、後漢の明帝の代に王族の帰依を受け、ついで2世紀から3世紀にかけて、安世高や支婁迦讖、在家者の支謙といった中央アジア出身者たちによって、仏教は中国(後漢)へと伝わりました。
 仏典は、当初はこれらの人々や敦煌出身の竺法護(239-316)、亀茲出身の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ、344-413)に代表される西域出身の僧侶によってサンスクリット語やガンダーラ語から中国語に翻訳(漢訳)されました。ただし、漢訳は決して訳経僧一人がおこなったわけではなく、訳場において複数の人が役割分担をしながら遂行されました。特に流麗な鳩摩羅什の翻訳は高い評価を得、現在でも彼の翻訳した『妙法蓮華経』や『維摩経』などは日本の仏教徒によっても親しまれています。
 また、時代がくだると中国からインドに行き、サンスクリット語を学び、新しい仏典を持ち帰る僧侶(求法僧)も出てきました。その代表が、『西遊記』の登場人物「三蔵法師」のモデルとなった玄奘(602-664)です。玄奘は、瑜伽行派の論書『瑜伽師地論』の原典を求めて、タクラマカン砂漠を越えてインドに入り、多数の仏典を中国へ持ち帰りました。彼の翻訳は、従来の翻訳「旧訳」と一線を画し、「新訳」と呼ばれて、高い評価を得ました。


仏典の収集と
整理

 大量かつ多種多様な仏典が漢訳されると、それらを整理する必要が生まれました。まず釈道安(314-385)によって「経録」(経典の目録)が作られました。これを承けて僧祐(6世紀初頭)の『出三蔵記集』や、594年に法経等によって『衆経目録』がまとめられ、多くの経録が編纂されました。つづいて、それらの経典が説く教えの内容を吟味し、その価値を判定して、自身の依って立つ教えを明らかにする「教相判釈」(教判)の試みがなされました。なかでも、後世に大きな影響を残したのが、後に「天台大師」と崇められた智顗(538-597)による「五時八教説」です。これは全ての経典(一切経)をブッダの生涯に即して五つの時期に分けて整理したものです。そして、成道の直後に説かれた経典として『華厳経』を位置づけ、入滅の前の八年間に説かれた最後の経典として『妙法蓮華経』と大乗の『大般涅槃経』を位置付けたのでした。この教判は最澄によって日本に伝えられ、日本仏教に大きな影響を残しました。
 全ての漢訳経典をまとめたものは、「一切経」あるいは「大蔵経」と呼ばれ、度々編纂され、印刷されました。最初のものは、10世紀後半(971-983)蜀(現四川省)で開版された『開宝蔵』です。この『開宝蔵』をもとに、13世紀(1236-1251)に高麗(現韓国)で新たに版木が彫られました。はじめは江華島の板堂に安置され、やがて、海印寺へ移され、現在世界遺産となって保存されています。この版木は全部で81,258枚という膨大なもので、「高麗八万大蔵経」と呼ばれています。この版木で刷られた大蔵経は室町時代に勘合貿易で日本に渡り、現在は日本の増上寺(東京都)と大谷大学(京都府)に保管されています。
 20世紀の前半(1924-1934)に、日本を代表する仏教学者であった高楠順次郎と渡辺海旭は増上寺所蔵の大蔵経を底本とし、他の版本と校合して、『大正新脩大蔵経』を出版しました。『大正新脩大蔵経』は世界的に高い評価を得ており、仏教を研究する上で不可欠な資料となっています。
 仏教伝道協会は、1982年より『大正新修大蔵経』所収の主要な典籍の英訳(英訳大蔵経)を刊行しています。1994年に発足した「大藏經テキストデータベース研究会」(SAT)は『大正新脩大蔵経』に収録された全ての典籍をテキストデータベース化し、ネット上に公開しています。台湾の中華電子佛典協会(CBETA)も日本撰述部を除くすべての典籍をネット上に公開しています。(なお「パーリ語三蔵」や次に述べる「チベット大蔵経」、そしてサンスクリット語で残されている仏典の多くが、電子テキストとして複数のサイトで公開されています。)


チベット
大蔵経

 チベットには、7世紀前半に仏教が伝来し、8世紀後半に国教と位置付けられ、仏典の翻訳が開始されました。9世紀はじめまでに主要な大乗経典と律典が翻訳され、10世紀後半以降は多数の密教経典や論書が翻訳されました。また、翻訳に際しては訳語の統一が8世紀後半から9世紀前半にかけてなされました。
 また、古代チベット王朝支配下の敦煌においては、写経所が設けられ、現地の漢人にチベット語と漢語で仏典を写させました。その結果、1900年に莫高窟から出土した膨大な敦煌文献には、多数のチベット語仏典が含まれています。
 14世紀にはチベット大蔵経の編纂が始まりました。チベットでは、翻訳した仏典を、経と律を含む「仏説部」(カンギュル)とその注釈を含む「論疏部」(テンギュル)とに分類しますが、まとめて「チベット大蔵経」と呼ばれています。15世紀に入ると、1410年の永楽版カンギュルの開版を皮切りに多くの版本が成立、18世紀にはテンギュルも含む様々な木版本が各地で刊行されました。その一つが、清朝の時代、北京で印刷刊行された『北京版チベット大蔵経』です。
 20世紀前半にチベットに入った日本人僧侶たちによって「チベット大蔵経」が日本にもたらされました。これらは東京大学や東北大学、大谷大学、東洋文庫などに所蔵され、研究されています。


写本研究の
進展

 チベットやネパールを含む広義のインド文化圏では、口承に加えて、宗教聖典や哲学書を写本に写して伝える文化があり、寺院や個人が膨大な写本を所蔵しています。特に近代に入ってネパールとチベットで発見された大量のサンスクリット仏典の写本は、近代仏教学を大きく前進させることに貢献しました。
 またアフガニスタンやパキスタンといった中央アジア各地の仏教遺跡から出土した仏教写本は、完全に揃っていることの多いネパールやチベットの写本と比べて、その多くが断片ではありますが、書き写された年代が圧倒的に古いものが多く、増補改訂が繰り返される経典の原形を探る上で、貴重な手がかりを提供しています。
 特に1996年にアフガニスタンで発見され、大英図書館が所蔵することになった仏教写本が、紀元一世紀に書写されたものであることが判明し、そのニュースは世界の仏教関係者を驚かせました。ただし、これには旧ソヴィエトのアフガニスタン介入からアフガン戦争を経て現在に到る現地の政治的混乱が背景にあり、仏教遺跡から盗掘された多数の写本が古書マーケットに流出している現実を忘れてはなりません。その象徴がタリバンによるアフガニスタンのバーミヤン大仏の破壊(2001年)であったと言えます。
 また、1999年にチベットのポタラ宮で日本の研究チームによって『維摩経』のサンスクリット原典が発見されたというニュースも世界の仏教関係者の関心を集めました。一方、チベット各地の僧院で保管されてきた膨大な量のサンスクリット仏典の写本は、中国と海外の仏教研究者の協力のもとに徐々に校訂出版が進められつつあります。写本研究は、今後の仏教研究を大きく進展させ、仏教理解の常識を覆させる可能性を秘めているのです。


おわりに

 「仏教経典」と聞くと、お仏壇にしまってある、漢字ばかりの古い「お経の本」を思い起こすかもしれません。昔から多くの方に読まれてきた仏教経典は、もはや新しい発見の余地など無い、魅力の乏しいもののように見えるかもしれません。
 しかし、仏教経典の研究は、世界中の研究者によって盛んにおこなわれているのです。特に、日本人にとって馴染み深い漢訳経典は、漢訳が比較的早い時期になされたこともあり、当該経典の最古の状態を示すものとして、その価値が見直されつつあります。漢訳経典が読解出来る欧米の研究者の数は増加しつつあります。また、海外の研究者の最新の研究成果を学び、彼らと交流するために、海外の大学に留学する日本の若手研究者も少なくありません。このような世界中の研究者たちによって、仏教伝道協会の大蔵経英訳事業は担われているのです。
 以上見てきたように、仏教研究は、例えば考古学や美学、言語学やデジタル・ヒューマニティーズなど隣接する様々な学問分野の助けを得て、新たなフロンティアを開拓しつつあります。これまで「定説」とされてきた学説が、つぎつぎと書き換えられていく、非常にダイナミックな分野です。一人でも多くの方に仏教経典の魅力を知っていただき、「実際に仏教経典を読んでみよう」「仏教について学んでみよう」と思って頂ければ、これに勝る喜びはありません。