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キーワードで<br>学ぶ仏教

「仏教聖典」は、より多くの人に触れていただきたい
との願いから、やさしくわかりやすい言葉を用いて
編集しております。ここでは私たちにとって身近
な問題を通じて、仏教の教えに出会っていただ
けるように、『和英対照仏教聖典』の言葉
から抜粋して、ご紹介いたします。

因縁(いんねん)

因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生(いんねんしょしょう)などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱(いつだつ)したものであるから、注意を要する。なお縁起という場合も、同様である。

廻向(えこう)

自分のなしたよい行為をふり向けることで、これに、自分自身の未来のさとりにふり向ける場合と、他の人びとにふり向ける場合とがある。現在一般に世間で使われているものは、「死んだ人が、この世でなした悪行の罪を消して、来世での良い結果を得るように」という願いをもって、葬式や法事の際の読経の功徳によって死者の冥福(めいふく)を祈念する、という形の廻向である。

縁起(えんぎ)

因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係しあって生起することである。 仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「お蔭(かげ)さまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣(はんさ)な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、本来の意味を忘れてはならない。

教団(きょうだん)

同じ教えを奉じて集まった人びとの集団をいう。一般に、教義を説き教える聖職者層と、教えを受け入れる信者から構成される。仏教では古来、これをサンガと称した。しかし厳密には初期においては出家者教団を指したと思われる。後に大乗が興起すると、菩薩(ぼさつ)という人間像を目指して実践する人びとの集まりは、在家、出家の区別を超えて連帯した教団となったといわれる。組織としての教団は、現在では一宗一派についていわれている。

空(くう)

存在するものには、実体・我(が)がないと考える思想である。すべてのものは相縁(よ)り、相起こって存在するにすぎないから、実体として不変な自我がその中に存在する筈がない。
したがって実体ありととらわれてはならないし、存在しないととらわれてもならないわけである。すべてのものは、人もその他の存在も相対的な関係にあり、一つの存在や主義にとらわれたり、絶対視したりしてはならない。般若経系統の思想の根本とされる。

解脱(げだつ)

文字どおりに、この輪廻転生(りんねてんしょう)する迷いの世界という縛(ばく)から解き離れて、涅槃(ねはん)とよばれるさとりの境地へと脱出することである。そして、この迷いの世界から脱出して、永遠にさとりの状態にとどまるものが、“仏陀(ぶっだ)” であり、そこでは一切の縛、すなわち煩悩(ぼんのう)から離れているので、自由自在なのである。

業(ごう)

本来の意味は行為ということであるが、因果関係と結合して、行為のもたらす結果としての潜在的な力とみなされている。つまりわれわれの行為は必ず善悪・苦楽の果報をもたらすから、その影響力が業と考えられるに至っている。善い行為を繰り返し、積み重ねれば、その影響力が未来に及んで作用すると考えられている。なお業には、身(しん)・口(く)・意(い)の三種の行為があるとされる。

慈悲(じひ)

仏教におけるもっとも基本的な倫理項目で、“慈” とは相手に楽しみを与えること、“悲” とは相手から苦しみを抜き去ることである。これを体得して、対象を差別せずに慈悲をかけるものが “覚者(かくしゃ)” すなわち仏であり、それを象徴的に表現したものが、観音・地蔵の両菩薩である。やさしくいうと、慈悲とは “相手と共に喜び、共に悲しんであげる” ということになる。

出家(しゅっけ)

家庭生活を捨離して、専ら道の修行を行うこと。またその実践者をいう。インドでは修道のために家庭を出て、宗教的実践の生活に入ることが、ごく普通のこととされていて、釈尊もそれに従って出家し、沙門 (バラモン以外の修行者)となり、遂に悟りを開いて仏陀(ぶっだ)となり、仏教の開祖となった。在家信者に対して、出家修行者をはっきり区別する仏教教団の伝統は、日本では厳格とはいい難い。

智慧(ちえ)

普通に使われている “知恵” とは区別して、わざわざ仏教では “般若(はんにゃ)” の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが “仏陀(ぶっだ)” である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を “般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)” という。

中道(ちゅうどう)

偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を徹見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、止揚する思想として表われてくる。例えば有・無の両極端、断・常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。

涅槃(ねはん)

梵語(ぼんご・サンスクリット語)の “吹き消す” という意味の、ニルヴァーナという単語の漢音写で、“滅(めつ)”・“滅度(めつど)”・“寂滅(じゃくめつ)” などと訳される。丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを “入涅槃(にゅうねはん)” といい、達したものを “仏陀(ぶっだ)” とよぶ。釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が亡くなった瞬間を“入涅槃” ということもあるが、肉体が滅びたときに完全に煩悩(ぼんのう)の火が消える、という考え方からで、普通は、三十五歳で仏になったときに “涅槃” の状態に達したと考えられている。

波羅蜜(はらみつ)

パーラミターという梵語の漢音写で、“度(ど)”とか“到彼岸(とうひがん)”と訳される。此(こ)の迷いの岸である現実の世界から彼(か)のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅蜜(ろっぱらみつ)といって、六種類があげられる。六とは、布施(ほどこし)・持戒(どうとく)・忍辱(がまん)・精進(どりょく)・禅定(せいしんとういつ)・智慧(ただしいはんだん)のことで、日本では、春秋の“彼岸”とよばれる行事は、これらを実践するということから名づけられたのである。

仏(ほとけ)

梵語の “さとれるもの” という意味の単語を漢字に音写したものが “仏陀(ぶっだ)” で、その省略が “仏” であり、”ほとけ” とも読ませる。普通 “覚者(かくしゃ)”・“正覚者(しょうがくしゃ)” と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である “釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ・ゴータマ・シッダールタ)” を指した。仏教の目的は、各人がこの “仏” の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)・薬師如来・久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
なお日本では、死者のことを “ほとけ” とよぶが、これは浄土教の “往生成仏(おうじょうじょうぶつ)” 思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで “仏” になるという信仰に由来する。

仏性(ぶっしょう)

“仏になる種子(たね)” といったもので、あらゆる存在にこれを認めるところに仏教の特徴がある。“覚(さと)りに達する潜在力・可能性” といってもよい。又、“仏心” といってもよいが、“一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)” という句にも表われているように、すべての存在に、差別しないでこの仏性を認めたところに、仏教の平等説の立場が見られる。この内在する仏性を外に現わしたものを “仏(ほとけ)” とよぶ。

法(ほう)

さとれるものである “仏陀(ぶっだ)” によって説かれた “真実の教え” ということで、その具体的な内容は、三蔵(さんぞう)とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律とに対する解釈や注釈)の三種の聖典である。これは、覚者(かくしゃ)である “仏陀”・仏教徒の集まりである “僧伽(そうぎゃ)” と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝(さんぼう)をなしている。

菩薩(ぼさつ)

元来、釈尊の成道(じょうどう)以前の修行時代を指す。悟りを求める人という意味である。大乗仏教が興起してからは、拡大解釈されて、大乗仏教徒を指すことになる。向上的には仏の悟りを目指しつつ、向下的にはすべての人びとを同様に仏の悟りへと導こうと努力する人間像を菩薩とよぶようになる。さらに仏の慈悲(じひ)や智慧(ちえ)の働きの一部分をにない、仏の補佐役として人びとの悩みに応じて現われる、観音とか地蔵のような威神力のある救い手もそうよばれる。

煩悩(ぼんのう)

悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩(わずら)わせる。その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。

無我(むが)

仏教の最も基本的な教義の一つで「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての “我(が)” を説いてきたのに対し、諸行無常(しょぎょうむじょう)を主張した仏教が、“永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない” と説いたのは当然である。なお “我” は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。

無常(むじょう)

あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。

無明(むみょう)

正しい智慧(ちえ)のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。

唯識(ゆいしき)

この世のあらゆる存在と現象とは、人間の “こころ” から生まれたもので、実際にあるのは、この “こころ” だけなのだ、という説で、大乗仏教の中に現われたもの。即ち、眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)という六つの感覚器官がそれぞれの対象を認識する六つの識(しき)のほかに、第七、第八(阿頼耶識(あらやしき))の二識をたて、これら八つの識の働きが、この世に存在や現象を生じさせているとするのである。

輪廻(りんね)

過去世から現在世へ、更に未来世へと、生まれ変わり死に変わることを、輪がまわるのにたとえたもので、輪廻転生(りんねてんしょう)という言葉もある。人間が、この迷いの世界からさとりの世界へと脱出しない限り、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)の三悪道や、それに阿修羅(あしゅら)・人間・天上を加えた六道の世界への転生を永遠に繰り返すのである。この輪廻の輪から抜け出たものが、“仏陀(ぶっだ)” とよばれる。